記念すべき新婚旅行の南イタリアがメインだったような気がする
買い付け日記じゃなくてごめんね


第14回 ベトナム・タイの巻
TSUNAMIの跡で


1月13日

いつも泊まっているホテルの目の前にある大きな街路樹が倒れた。
何の前触れもなく突然倒れたその木のでかさは、デタム通りを完璧に塞ぐほどだ。
多くのバイクや人が行きかう通りにも関わらず怪我人が出なかったのは幸いだった。
なんと言ってもその木の倒れるタイミングがすごい。
私とハンちゃんがその木の倒れる方向を通り過ぎてから10秒も経っていないその時、音もなく斜めになったかと
思いきやターーーっと倒れだし、そしてダダーン!
あたし達って運がいいの?悪いの?これって良いんだよね?九死に一生だよね?
とハンちゃんと語りつつ記念撮影。(データを紛失して証拠がありません)
サンプルの仕込みを終わらせたら明日はバンコクへ。
本物の九死に一生の人と会わねばなりません。
運が良いとか悪いとか人は時々口にするけど、そう言う事って確かにあるとあなたを見ててそう思う、の人。


1月14日

深夜ホテルへ到着すると、入り口には軒を並べるホテル全部から入室を断られたバックパッカー達が
重いリュックを所在なげに背負って立ちすくんでいる。この通りのホテルは全て満室だ。
あの津波の影響で、タイ行きの便はかなり空いているだろうと思いきや、成田-バンコク、サイゴン-バンコク共に満席。
サイゴンにはあまり観光客がいないように思えたのだが、バンコクはいつもよりも人が多いくらいだ。
いったい今、人々は何を目的にこの地へ来るのだろう。
帰国日までに再度サイゴン-バンコクに搭乗しなくてはならないのだが、それも満席。未だキャンセル待ちなのだ。
ホテルに入ろうとすると、行き場をなくして入り口に立っていた金髪の男の子が「ここ満室だよ!」と言いながらも、
扉を開けてくれた。「ごめんね。予約があるの」「げー、やるなあ」と彼が笑う。
私の部屋はラテさんが予約しておいてくれていた。
ラテさんはこのホテルにロングステイしている日本人で、プーケットにダイビングショップを持っている青年実業家だ。
殺しても死なないような人という期待を裏切ることなく生きていた。
この時期はもれなくプーケットにいるのが常なのに、たまたま彼は何故かなんとなくサイゴンに出掛けていた。
その日の朝は、サイゴンの安宿で二日酔いの頭を抱えて唸っていたのだ。
「なぜかなんとなく」そんな所にいたなんて、最高に運がいい。
それでも、ダイビングショップはカケラも残さず海の藻屑となり、タイ人スタッフも全員帰郷させた状態だ。
チェックインを済ませてラテさんの部屋をノックすると、ちょっとだけ小さくなった彼がいた。
いつものように元気な笑顔だ。

この時期プーケットは掻き入れ時。どのショップも朝食前、朝食後、昼食後と1日3本潜る店が多い。
ラテさんのショップは無理をしない方針で、この朝食前の1本をやらない。
この朝食前の1本を潜っていたら、間違いなくスタッフ全員が巻き込まれていた。
また、ショップの宿舎が山側に位置していたことも幸いだった。まだ寝ていた子も多かった。
ショップや船、機材やコンピューター、なにもかもがなくなったがスタッフは全員無事だったのだ。
この朝の1本を敢行してしまった人々・・・参加したお客さんはもちろんのこと、ショップ立ち上げから仲良くしている
近隣のお店のスタッフ、協力し合ってきた海の仲間達はまだ誰も海から上がってこない。
タイ政府から要請があって、すぐにプーケットに向かいラテさんは潜水捜索のスタンバイに入った。
海軍の指揮の下、行方不明者や遺体の捜索にあたるのだ。
「死体なんぞ、捜さなくてもすぐにそこにあったよ」
浜に足を踏み入れたらすぐそこに、浅瀬に浮かんだたくさんの遺体があった。
何故か誰もが目を見開き口も開けて、仰向けにたゆたっている。子供や年寄りが目立った。
「海軍の連中も堪えきれなくてな。泣きながら引き上げてた。」
現場へ行っても船が出ない。表面上終わった津波はまだ海の中で渦を巻いていて潜水出来る状態ではないのだ。
ようやっと船が出ても余震が続き予断を許さない。海の中は突然流れの方向が変わる洗濯機みたいだ。
ものすごく気分が悪くなる。そして怖い。
引き上げた遺体は1日で47人。
お寺など涼しい場所に並べられ顔写真を撮られる。ここがタイならではのお国柄なのだが、宗教上の理由と
慣習から大事な仏さんの頭の側に立ってはいけないので、足の方から顔を撮影する。
すでに顔がふやけている所を、更に下から煽って撮るので、それはもう誰が誰だかわかんない写真になってしまう。
指紋や毛髪などを採取してからビニールで包む。
黒いビニールで包むと腐敗が促進されてしまうので白いビニールで包むのだが、白かろうとビニールはビニールなの
で、やはり遺体は温まってしまい腐敗臭は酷く、どこまでも漂う。
そんな中誰かがラテさんに声をかけた。「日本の方ですよね」嫌な予感がしたので返事をしなかった。
「日本の方ですよね。なぜ返事をしないのですか?返事をしてください!」
しつこいので振り返り「なんですか?」と言うと「日本大使館の者です。日本人の方はここから退去して下さい」
まだやり残した事がたくさんある気がした。もっとたくさん手伝いたかった。
それでも強制退去命令。ラテさんはバンコクに戻らざるを得なかった。

津波の被害からは逃れられたスタッフ達も目の前で惨状を見てしまい、かなり傷ついているという。
今まで付き合ってきたお客さん、友人、旅仲間から義捐金が届くとスタッフに渡し、取り合えず実家へ帰した。
自分が生きている事を素直に喜べない日が続く。時折、とても生きている事に感謝でいっぱいになるが、
すぐに申し訳ないような気持ちにも襲われる。
不思議と何もかも失ってしまったことに対しては、心が動かない。つらいとか悲しいとかと思えない。
「たぶん、まだ終わってしまった実感がないって言うか、長い何かの途中の事なんだろうね」と2人で話した。
これから保険屋と交渉したり、方向性を決めたり、大人らしく悩まなくちゃいけないことがたくさんあるのに、
なんだかそれも絵空事のような感じだと。
「さすがに・・・今回ばかりは一回日本に帰りたいなあ」と笑う。
「今まで死体とはかなり遭遇してきたし、九死に一生も得てきたけど、今回ばかりは本当に怖かった」
ラテさんは、ダイバーでもあり、登山家でもあり、世界中をくまなく旅する人だから、いろんな事があったろう。
そのラテさんの今度ばかりは・・・の弱音。大きな声で言ったその弱音は、ちっとも恥ずかしそうな弱音じゃなかった。
すごく、それで良いんだ、と思った。
そう思えるのにはもう少し時間が要るだろうけれど、心から運が良かったと思って良いと思う。



1月15日〜17日

スカイトレインでマーケットへ、船でバンコクノイへ、タクシーでチャイナタウンへ。忙しい毎日。
バンコクはいつもと変わらず元気いっぱい。
経済活動になんら問題がなければ、遠隔地の被害を実感するきっかけなどカケラもない、と言う事実は
私もかつて関西大震災が起きた時の東京で、驚きをもって体験している。
あの日の朝、私は企業の一部として関西地区の電話を回し、応援の準備を手伝いもした。しかし自分としては
どう捕らえたら良いのか、何が出来ると言うのか、考えているうちに普通にお昼ごはんの時間になって、
なんだか申し訳ないような気分になったが、関西を経由しない経済活動がほとんど2日で構築されると
現場の興奮もあっという間に収まり、お昼ごはんも申し訳なく戴ける様な状態にすぐ戻った。
心を痛めテレビに釘付けになりはしても、自分の食卓は暖かく朝のラッシュは厳しく、事件は平凡な生活の強さに押し
出されていく。関西は遠隔地ではない。新幹線でたった3時間の場所なのに。
今年の元旦はバンコク市民もいっさいのパーティーを自粛し、静かに迎えたと言う。
それでも治外法権のカオサン通りは、多くの外国人がどんちゃん騒ぎをしただろうし、今では普通に誰もが宴会を
楽しんでいる模様。どこかでエラーが発生してもリペアするパワーが備わっているのが近代国家。
まさに、タイは近代化しバンコクはシェルターに入った心臓のようだ。
余震もまったくなく、私もいつもの様にカフェのテーブルでラテさんと路上を眺めて遊んでいる。
ただ何故か熱帯の国なのにもんのすごく寒くて靴下が脱げない。デパートの方が外よりあったかいという異常事態だ。
人と密着するマーケットで「あー、あったかい」と言うセリフを何度も聞いてしまった。
「こんなに寒いのはおかしくないか?」と誰に聞いても「雨だからね」と答える。
そんなんだから、見た事もない程潮が引いた浜辺へピチピチ跳ねる魚を捕りに行っちゃったんじゃないか?タイ人よ。
「昨日はパタヤでパーティーだったんだよ」とツアーデスクのお父ちゃんが話す。
「昨日はパタヤまで車飛ばして大儲け。今日はホリデーだな」と言うタクシー運転手。
プーケットがだめならパタヤで、と言う人が増えているようだ。
こんなに寒いんじゃどうせ泳げないし、歓楽街がアクティビティメインのパタヤビーチは人気なんだろう。
「バイクに乗ってたら、乳首が立ったんだよ!」と、バーのシンガーが言う。
寒さと言うものを体験しないバンコク人。寒さで乳首が立つなんて初体験?とにかく大事件。
「日本はいつもさびーのよ。乳首なんかいつも立ってっから」と言うと、うひゃうひゃと笑っていた。
入れ替わり立ち代り、テーブルに誰かがやって来ては話しをしていく。
奇跡の人ラテさんを隣にして遊んでいると、時々、ああ普通っていいなって思ったりする。
事件って言えば乳首立つってなくらいで生きていけたら、と思わずにはいられない。

乳首の翌日、サイゴンへ戻るタクシーの中で運ちゃんから地下鉄衝突事件の話を聞いた。
そう言えば朝ニュースでアナウンサーが路線図出してウニャウニャ言ってたっけ。
「スカイトレインが空から落ちて、地面を掘ったら地下鉄だなあ!」なんて、冗談を言ってた。
「誰も死ななくて良かったねえ!」
災害から隔離されたようなバンコクに暮らす運ちゃんも「もうこれ以上死ぬ話はいやだね!」とまじめ顔で答える。
彼は先の世界大戦で、アメリカ軍からタイプを教えられ逓信者として働いたそうで、英語が達者だった。
「大阪は大変だったろう」
関西大震災のすぐ後、ベトナムでもタイでも地震の話が全然通じなくて意外だった。それが今回はあちこちで
関西大震災の話が持ち上がる。TSUNAMIの脅威が過去の災害をクローズアップさせたようだ。
「プーケットもすぐに立ち直るさ」 そう、恐らく半年で街自体は元に戻るだろうと言われている。
ハード再建のスピードはソフトの傷が癒えるより早い。誰かが置いてきぼりにならないようにと思う。


後半へ続く


もうけっこう
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